こんにちは、齊藤伶央です。今回が The NewZ に寄稿する 2 本目の記事となります。私は足に病気を抱えていた経歴があり、その経験があるからこそ、日本とアメリカの両方で学生として過ごす際の「障害」をめぐる認識や、教育機関における環境のグリネルカレッジ(アメリカ)斎藤 怜央違いをより深く考える視点を持てていると思います。本記事では、「障害」の定義や「障害者」と呼ばれる人々の周囲の環境について取り上げます。 私たちは日常生活の中で「障害者施設」や「障害者向けの配慮」といった言葉を耳にすることがよくあります。しかし、そもそも「障害」とは何でしょうか。 メリアム=ウェブスター英英辞典によれば、その定義は次のようになっています。 身体的、精神的、認知的、または発達上の状態によって、特定の作業や行動、あるいは日常的な活動や交流に参加する能力が妨げられたり、制限されたりすること。 つまり、平均的な人々と比べて「何かを行う能力が大きく逸脱している状態」を指すのだと言い換えることができると思います。 しかし、ここで疑問が湧くでしょう。人は誰でも得意不得意があり、ある分野で他人より劣るのは自然なことです。そうなってしまうと、「個人差」と「障害」の境界線はどこにあるのかがとても不透明でわからなくなってしまいます。正直なところ、私自身にも明確な答えはありませんし、現代社会 誰かを「障害者」とラベリングするのは諸刃の剣だと思っています。 一方では、「特定のことが難しい人」と社会的に認識されることで、周囲からの配慮や支援を受けやすくなります。しかし他方では、自らを「障害者」と名乗ることで「自分はできない」と思い込み、本来なら可能なことにも挑戦しにくくなるという心理的制約もあります。 そんな中、「障碍者」が支援を受けられなくなってしまうのが 最悪なケースだと考えているため、私たちがいわゆる「障碍者」と読んでいる人たちの呼び方を変えるのが一番いいと私は思います。「障害」者のように「できない、欠けている」という言葉よりも、「苦労人、大変努力している人」のような意味を持つ表現に置き換えるべきだと考えています。なぜなら「障害」という言葉には否定的な意味があり、「できない人」も答えにたどり着いていないと思います。 例えば私自身を例にすると、生まれつき足に内反足があり、歩けるようになるまでに 2 度の手術を受けました。しかし、日常生活を送る上で大きな支障はなく、スポーツがやや苦手なくらいです。そのため、自分を「障害者」だと考えたことはほとんどなく、「運動よりもインドア活動が好きな人」という自己認識でいました。けれども、同じ内反足でも松葉杖なしでは歩けない人にとっては、自分を「障害者」と認識するのが自然かもしれません。 私が説明したい「個人差」と「障害」の違いを数値的な例で整理すると、人間を 5 つの能力値ベクトルで表すとしましょう。平均的な人を <50, 50, 50, 50 ,50> とすると、他の人は <46, 54, 58, 45, 52> や <55, 59, 41, 42, 60> といった具合で少しずつ異なります。これくらいの差は社会的に許容されますが、もし <10, 42, 50, 53, 75> のように特定の能力が大きく平均から外れると、その分野での困難が顕著になり、「障害」と分類されやすくなるのです。という印象を強めてしまうからです。実際には誰もが何かを得意とし、何かを苦手としているに過ぎません。 また、「障害者」と認定されるほどではないが、日常的に困難を抱えている人も存在します。私自身はこのグレーゾーンに属すると考えています。例えば私は人より走るのが遅いのですが、走れないわけではないため、障害者手帳の対象にはなりません。しかし周囲には理解されにくく、支援も受けづらいのです。そのため、運動が苦手なことでからかわれることもありました。その上、教育機関においてのこういったグレーゾーンの人は苦労することがとても多いです。なぜかというと、サポートをなにももらえず、他の人たちと同じ基準で技量を測られてしまうからです。私自身もそういった理由で体育の授業ではどれだけ頑張ってもいい成績を取るのが大変だった記憶があります。 はじめに 「障害」とは何か? 「障害者」とラベリングすべきか?14「障害がある」とはどういうことか、そしてその周囲の環境について
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